春の途端

とりとめもなし、思考や事象や日常について

光があるところに、陰も生まれる【文劇5感想】

 

文劇を観てきた。(軽く内容について触れています

ゲーム【文豪とアルケミスト】の舞台化作品で、今回が5作目に当たる。毎回、物語の重厚さに涙が止まらないまま帰るのだけれど、例に漏れず今日もそういった感じだった。精神の葛藤、重圧に苦しみながらも戦う文豪たちの姿に、胸が縛られてしまう。

夏目漱石門下である芥川龍之介久米正雄のいびつな間柄とそれを取り巻く周囲との相関が鮮やかな今作、夏目漱石こゝろ』の侵蝕(=文アル用語で、物語を食い潰し、やがてその作品・作家の存在をもなかったことにさせる現象)を受け、ここで『こゝろ』は”人間のエゴ”を描いた作品であると紹介が入る。そこから、物語の全体へ”エゴ”というテーマがヴェールのように掛かり、観劇者の目の前へちらつく。

久米はかつて、芥川・菊池寛らと共に『新思潮』という雑誌を発刊し、仲間の中で最も早く文壇に認められていたが、芥川の『鼻』が漱石の目にとまったことによって、その「歯車は大きく狂いだした」らしい。

久米の周囲への当たりの強さ、孤独へと自ら飛び込む図と、芥川の自責、そのいずれもが苦しく、悲しかった。久米は己の弱さから攻撃性を高めているのかと思ったが、実際のところは分からない。ただ、こういった弱さ故の鋭さについて、私自身が実感することの多いという点でふと思い至っただけだから。久米曰く、芥川へは「その才能を純文学ひとつに絞っていれば、もっと活躍できたはずであろうに」という気持ちから、いらだちが生まれていたらしい。ふたりは同じ心、純粋な魂を持つ者同士であったのだと、久米は当初感じていたかもしれない、と描かれている。ふたりの出会ったばかりの回想と、現時点でのと、久米の声音・話し方が明確に違い、その描き分けに平伏した。(こういう細やかな部分にも触れ始めると、本当に止まらない!)

特に、文劇シリーズは表現者である人に尚のこと観て頂きたい作品で、と言うのは、いつも表現について強い問いをこちらへ持ちかけてくるから。今回は江戸川乱歩エドガー・A・ポー(素敵な共演!)、ラヴクラフトなど大衆小説家と、純文学を志す久米正雄との間に繰り広げられた「自分のための作品、相手のための作品、どちらがいいか? 悪いか?」という部分。久米は「読者に媚びを売るような作品」と大衆小説を辟易し、「そも万人が分かるような作品などない」と言う。ポーは「読み手がいない小説など、最早小説ではない」と言う。

これはちょうど、私が対面していた答えのない問いであり、だからこそ強く深く、胸に沁みわたった。恐らく、答えはないのだろう。どちらも共に独り立ちした主張であり、等しくぶつかるということは正負も何もないということなのだから。私は、久米の自分の美学を貫くさまが、生きづらそうに見えながらも、美しく大好きだと思った。元々そういう気質が私にもあり、しかしそれに不安を感じ始め、周りの目を気にしていた。だからこそ、誰に何と言われようと常に自分の道を行く久米の姿が、本当に好きだと思った。

また、久米はその流れでこのように話す。

「文学は、誰かのためじゃない、自分が生きるためにあるんだ」

この言葉に救われた、と思った。小説を、自分の精神のために書き始めた、といったようなことを劇中に漱石が言っていた。痛いほど分かる、と言いたい。感情を動力に、自分の心のために書いていく。久米はずっとそれを貫いている。眩しい、負の感情を以て、エネルギーとともに作品を仕立て上げる、彼が眩しかった。本当に出会えてよかった。

 

帰り、図書館に寄って久米正雄作品集を借りた。小さな岩波のもので、短編がぎゅっと詰まっている。劇を観て、実際の久米作品も読んでみたくなって。(同じ経緯で有島武郎も好きになったような)調べた限りではどうやら本となっているのはこの1冊だけのようで、劇中に出てきた『破船』は今では中古本だけの様子。一応、国会図書館のデータベースが中身を一般に公開しているけれど、とても見づらい。少し読んだが、彼の文章は精緻で、美しかった。心の隙間へ、糸のように細く音もなく、入り込むような。ゆっくりでも読み進めようか。こちらの久米の文章のことをもっと知りたい。

 

www.iwanami.co.jp

話した作品集はこれ