春の途端

とりとめもなし、思考や事象や日常について

結局、規定に合うように間に合わせるつもりだった作品は、原稿用紙に直した時ゆうに枚数が足りないことが分かって、断念した。昨日までの小説賞だった。(昨日が締切の賞って多いのね。春だからかな)

代わりに、書き終えればちょうど中短編サイズに仕上がりそうなので、夏頃の短編の賞にそれを直しつつ・書き足しつつ間に合わせて、同時にもっと大きく長いものを用意することを考えた。が、試験や検定や、やりたいことが多過ぎて正直二兎を追う者一兎も得ず、を体現している気がする。そもやり方が下手なので、見直さなければならない。

 

昨日、一昨日は暖かかった。急に春物をおろせる気温になってびっくりした。うきうきもしてくる、花粉症は憎いけれど。

冬のうちに買っていたベストをおろして、かわい〜となったのが一昨日。初めて丈が理想のものが見つかって、しかも色も好み。おまけに仕様として洗濯機洗いでも毛玉ができにくいと明言されている。(ここの「毛玉つきにくい製品」数年前に買ったものが今も元気なので、信用している)

春は新しい服を着れるのが好き。そしてそれは夏も、秋も冬にも言える。

 

とうとう新年度になって、今日はスーツの若い人々をたくさん見た。

そういう私も今日はスーツだったのだけれど、ショーウインドウに映る自分の姿はまだ去年の私と変わらないように見えて、ちょっと柄の入ったおしゃれシャツ(襟にはレースがあしらわれている)を着ることで少し抵抗したつもりだったのだけれど、あまり意味がなかったかもしれない。

また1年がんばります!

空を踏んでいる感覚で書いてしまった

ここ数日まったく筆が乗らなかったのが、昨日今日で急にするすると言葉が出てくる。応募しようと思っていた小説賞に間に合わないと諦めていたけれど、もしかしていける……?

(それにしても、字数まだまだですが。)

書き始め、シーンの切り出し方に迷って「なんか違う気がする」と感じながら書いていたので走行もぐずぐずだったのだと思う。正しい方向が決まった今だったらどこまでも走っていける、というひそやかな自信。

 

そういう訳で今すごく長い文章(当社比)を書いているのだけれども、合間に書くブログの文章は息抜きになって好きです。別の筋肉を使っている感覚なので、息が切れない。別腹というか。

準備運動としてブログを書いてから、本文を書き始めることもある。

文章についても練習が欠かせないということにようやく気がついた近頃、「とにかくものを多く書いて、言葉選びを考え、完結させる」を目指している。何かを言葉にすること、ちょっと目を離すとサボりがち。常に頭の中で文章を組み立てて巡らせても、それを実際に紙面へ形にしないままでは歯車が上手く噛まない感じ。

困るとすぐ机上の空論ばかり唱えてしまうのが私で、どうか地に足つけて生きていただきたい。

(ということを、ちょっと考えをし過ぎてふわふわになった頭で、書きました。)

今はまだ空想の中のモレスキン

今週のお題「練習していること」

 

水彩画を始めようと、実際に画材を集めてから1年と少しが経ちました。

最近はすっかりご無沙汰でスケッチブックの表紙すら開けていない。

ただ、好き自由に何かを描くことは好きなので、例えば手帳の端であるとか、iPadのお絵描きアプリにであるとか、全く上達せずではあるけれど、少し描きつけるだけの生活はしていた。

(影を入れると なんだかちょっと上手く見える 気がする)

こんなのとか、

(好きな漫画のキャラクターのファンアート イエティちゃんです)

こんなのとか。

これらを描いたアプリはわりと水彩が好きな感じで表れるので愛している。『Sketchbook』という名前で、オレンジ地に鉛筆1本というシンプルアイコンです。

練習することが嫌いな人間らしく、ほんとうにずぼらで三日坊主なので(じゃあ今までに身につけた芸当は一体練習だと思ってやっていなかったのか、はたまた幼い頃は練習もそう苦ではなかったのか。前者であるとすると、だいぶ大した人間だと思うのですが)こつこつとものを続ける、といったことを覚えたい。日記だってここ数か月書いていない。フランス語もテキストやデュオリンゴと別れて久しい。

これでいてたまに思い出しては頑張ろうとするので、効率が悪いんですよ。細く長く続ける工夫が、今の私には必要だろうと思う。

私はいつも理想が高すぎる。

ちなみに、絵についての目標は旅先にて絵で記録をつける人になること。モレスキン(小さなサイズのブラック。ハードカバーがいい)をペン画で埋めて帰り、家で思い出しながら色付けをする人になりたい。

これから色々なところで絵の描ける人の話を聞きながら、少しずつ続けていくことにします。結果をお知らせできるといいな。

計測不能か、気遣われたかの二択

Spotifyで占いをおすすめされたのでやってみた。

どうやら質問を選んで投げかけると、ぴったりな曲を選んでくれるらしい?

 

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ということは、つまりはどういうことなんだろう。

(もういっかいやれってこと?)

 

Spotify を1か月ほど前から利用しています。

既にプレミアムに入っていてやりたい放題。じゃないと聴きたい曲の前でお預けをくらうので(指定をしても勝手にシャッフルして、目的の曲を聴かせてくれないよね)商売の上手いこと、と思っている。

私は、どちらかと言うとこれまであまり音楽を聴いてきた方ではない。

聴いても習っていた楽器の練習曲だったり、好きかもと思ったアーティストの作品を一通り、といった感じで、だから曲自体を、耳を澄ませて聴こうと思った経験はなく。

そういうわけで、自分ではいつも音楽のある生活がちょっとびっくりで、新しい自分になったと錯覚させられて楽しい。

 

お気に入りに加えた曲を聴くのも勿論テンションが上がるけれど、まだ見ぬ曲探しへ出かけて、そこでサイコ〜〜〜〜〜〜!!! という曲に出会えるのもいいよね。よだれ出るね。

聴けば聴くほど自分のプレイリストが育っていってかわいい。

すくすく育ちたまえ……

 

 

今これを書きながら聴いている曲

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さっき出会ってすぐにオキニに入れた。合間にニャーって鳴くのかわいい。

愛してると言えば愛していることになるかもしれない朝はあかるい

部屋から、かつて短歌作りに使っていたノートが出てきた。

と言ってもそこまで昔でもなくて、恐らく大学1、2年生頃だったと思う。短歌の作り方をよく分かっていないので、リズムとフィーリングでしこたま詠んでいた(とも言い難いくらいぽんぽんと発想していた)時期。

憧れで買ったモレスキンのハードカバーのブラック。いちばん小さいやつ。それに同じように憧れで買ったラミーの万年筆を使って、とにかく言葉を書き殴った。

インクはブルーブラック。

 

短歌も含めて、定型詩・句は私にとって難しい。昔はあれこれ好き勝手して書いたが、それらはやはり単語同士を繋げただけというか、好きな要素をかき集めただけなので、深みがないと思う。ごまかしの擬音や、繋ぎだけの役割になる言葉(“そして”とか、頭数に加えやすくそれ単体でどこにも持っていける言葉)をリズム合わせで選んでしまう。

好きな歌人の作品は、三十一字、どこをとっても無駄がない。その境地に辿り着く感覚が今の私にはなくって、どこにあるかも分からない。短歌ってどう学ぶんだろう。

手元に本がない今でも、パッと思い出せるほど沁み込んだ歌がふたつある。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

(笹井宏之『えーえんとくちから』より)

たやすみ、は自分のためのおやすみで「たやすく眠れますように」の意

(岡野大嗣『たやすみなさい』より)

好きな短歌は、こうして言葉同士が繋がれていて、意味通りに、唱えるように口の中ですぐ繰り返せる。

 

私は主に小説を書くけれど、私の中で根幹としてある作家は小説家じゃなくって、勿論好きな小説書きはいるが、やっぱり、中原中也がいちばんなんだよなあ。

型のある詩の中に、空間があり、色彩があり、読んでいて隅々まで世界が用意されていて、生きていると思う。彼の俳句も好きだ。型のあるものを歌う才能だと思っている。

(小説も私は好きだが、あまり評価されなかったのかな。)

 

懐かしい話だが、もっと若い頃は岩波の大岡昇平編の詩集と毎日一緒に眠っていた。(ほんとうに布団を共にしていた。)

より強いエピソードだと、文学館の小林秀雄に関する展示で見つけた、差出人が中原のはがき、撮影が禁止だったので頭の中で繰り返しながら彼の住所を覚えて帰ったことがある。

 

ただ、若い私は今より本を読まず、特に近代日本文学なんてさっぱりで、『細雪』が谷崎潤一郎著であることも、そも谷崎という作家の存在すら知らなくて、答えられなかった経験がある。

それが急に中原なんて不思議な話だとは自分でも思うのだけれども、純粋にその人の言葉に惹かれるってそういうことなのかな、と思った。恋っていつの時代もするものだね、とも。

 

という訳で、今日のタイトルは私がモレスキンのブラックを使っていた頃に作った、恋や愛の1首です。小説で扱いがちであるのと対照的に、恋や愛を詠んだものは少ないと記憶している。

絞り出して書こうとしたそれらでなくて、自然に出てきた心だ。案外、本質はこういうところに眠っているんじゃないか?

 

実はだいぶ前に書いた記事に、この短歌を少し登場させた。私が、私の作った短歌の中で、唯一口ずさめるので簡単に持って来やすい。だからいつまでもそばにあるし、そう、私はこういう短歌が詠みたい。

遠いところ

知らない町へ行ってきた。

今まで遠いところだと思っていた土地で、今日降り立っていなければきっと今後も行かないはずだったところ。私の生まれた町を中心とするのならば、そこは確かに端かもしれない。

吉田篤弘風に言うのなら、「世界の涯」?

初めてだったけれどすべてが好きだった。道を歩くたびに会うお店、行き交う人は多いけれど皆がしんとして自分の生活に向かっている。慣れ親しんだ空気とはっきり違うものはあるけれど、それがすうっとからだに馴染んでくる感じ。

すぐにここ好きだなと思った。それから、住むならこんな町だな、とも。

 

入ったカフェでは無音にした映画が流れていた。それが偶然観たことのあるものだったので、そして観てからいつの間に数年経つので、展開を思い出しながら紅茶を飲んだ。

終わり方が好きな映画だった。主演ふたりが幸せそうに笑ってエンディングで、私は当時観て最高の気分になった。今時の特典が貰える映画じゃなかったのに公開中に珍しく2回観た。まさか今日、3回目のハッピーエンドを見届けられるなんて思ってなかったな。

 

予定になかったけれど、心惹かれて少し歩く。

観光と言うには観たものは少ないかもしれない。けれど、それ以上に何だか心が洗われたようで、肌が触れ合うようで、やっぱり行き着くところは“好き”だった。旅って、案外こういうところにあるのかもしれないね。

なくなるものたち

地元のカフェ、恐らくつい2週間前にも寄ったのだけれども、今日来たらついにあらゆるパーテーションが消えていた。ひそかに感動する。そして、そのカフェで今これを書いている。

ちょっと落ち着かない。

もう4年にもなる間、ずっと境目が視認できる生活をしていたからなあ。というのと、ソーシャルディスタンスが唱えられるようになってから、どうにも人との距離に敏感になってしまった。流行病が盛りを超えてからも。

あと、アルコールシートの常用とか。この4年できれい好きに磨きがかかったかもしれない。

(部屋は ものが多いんですけれどね)

 

昨日は愛ジャンルのサ終を聞いて大動揺したけれど、今日は、まあ、吹っ切れるわけがないですよね。

昨日の発表後から、今日も。ツイッターを開くと、同じゲームをプレイしていた人々の悲しみが溢れていて、(私だけじゃないね、そうね。)と思った。

そうしてちょうど、そのコンテンツが6周年を迎えるので、記念ポップアップストアのお知らせが流れて来もして、それが何だかサ終の発表より鋭角で刺さってしまった。