春の途端

とりとめもなし、思考や事象や日常について

久米の話

久米正雄を幾つか読んだ。今日は短編集を注文してきた。いま借りている本を手元に置こう、と思って。(数日前、図書館に行った)

 

harunototan.hatenablog.com

久米正雄の話はここで少ししている。

 

『破船』を国会図書館のデジタルデータで少し読んだときから思っていたが、表現の繊細な具合に、張り巡らせた葉脈のような神経と、文章への執着を感じた。彼にとってものを書くのは、一種のプライドであったのではと思う。特に短編『手品師』で語られる作家の青年に、どうしてか久米自身の姿形を意識する。

事実、彼の文章は深い。分け入っても分け入っても底が見えず、気づいたら四方を彼の言葉に包まれているような印象を受ける。岩波から出ている短編集の初め、『父の死』から少し引用をしたい。

 

その年の春は、いつもの信州に似げない暖かい早春であった。私共の住んでいた上田の町裾を洗っている千曲川の河原には、小石の間から河原蓬(かわらよもぎ)がするすると芽を出し初めて、町の空を穏かな曲線で劃(くぎ)っている太郎山は、もう紫に煙りかけていた。(石割透編『久米正雄作品集』p.9 岩波文庫,2019年8月)

 

この自然の在り方の描写――山や川や――が好きだ。何を中心点に、どう周囲を表すかというのは、作家のセンスが問われるものだと思っているけれど、彼の文章には背中が震えた。ただ山がある、わけでなくて、空という広い”地”を、山の滑らかなシルエットが流れている姿。その道筋を辿って想像をすると、山肌の青さや若い春のよそおいが一層ありありと匂うように思う。

(これは私の話だが)以前、私は日没あたりの山を見、山の奥に落ちていく陽と影によって真っ暗になった山のシルエットの塩梅を見て「何だか薄明るい色紙に、黒々とした切り絵を重ねたみたいだ」と思ったことがあって、その感性を思い出した。そして、私は彼に似たようなアプローチをしているのでは? と考えて、無性に嬉しくなった。閑話休題

 

久米正雄は自身の経験から作品を生み出すことの多いらしく、その点も強く共感をした。先ほどの『父の死』や『競漕』など、まだ調べが十分でないけれども、恐らく更にあるだろう。短編集を読み進めたらまたここで感想を書きたい。今日のところは、ここらで。