春の途端

とりとめもなし、思考や事象や日常について

春に咲く木

職場の近くに、春に咲く木がある。

ちょうど去年の今頃に出会って、そのときが彼にとって春の盛りだったのだと思う。たった一度見ただけで、今までずっと心の中にあった。葉になっても枝になっても、春の頃のその姿を忘れなかったのだから、相当な気がしてもくる。

路地に生えている。まっすぐ突き当たりの、都会の中庭のようなところ。私有地というかそういった場所(関係者以外立ち入り禁止といったような)に見えるので、近づいて見つめたことはない。ただ、近くへ寄らずとも、むしろ遠巻きからの方が美しく思えるので、満たされている。

(思えば絵画の鑑賞法も、私はそういうタイプかもしれない。)

 

 

生活が大きな変化を迎えてから1年が経ち、初めて“知っている”を繰り返している。勤め人になるとはそういうことなのだろうか? 同じ季節が来て、当たり前だが去年よりは少し慣れた私がいる。

特に最近は物事を考えることに責を感じるような、何かをしなきゃという圧迫感がゆるく立ち去って、発想力と柔軟性が訪ねてきたような、つまりはなんだか調子がいい。

多分、慣れで変な力が抜けたのが大きい、と自分では思う。プレッシャーと期待されることに弱いので、上手くできなきゃと考えるほど空回りしていた。最近では「まあ、こういう人間って皆さんも分かってくれたでしょう」という変な腹の据わり方? 開き直り方? ができて、おかげでゆるふわに視野が広くやれている気がする。

と言っても、あくまでこれは私から見た私への客観なので、変に驕りすぎないようにしてくださいよ、とは常に言い聞かせていかなきゃならない。

 

今週、花弁が風に乗って道ゆく先へ吹き溜まるようになり、その木には葉が増えてきた。晴れの日は路地がくっきり影と光に分かれ、そして彼は必ず光の中へいる。光の中から、影の方へ花弁を送ってくる。

そういうあなたに会いたくって、この1年頑張ってきたんだ、とは伝えないけれども。会いたくって、わざと曲がる道を変えているのもやっぱり伝えないから、彼は何も知らない。