部屋から、かつて短歌作りに使っていたノートが出てきた。
と言ってもそこまで昔でもなくて、恐らく大学1、2年生頃だったと思う。短歌の作り方をよく分かっていないので、リズムとフィーリングでしこたま詠んでいた(とも言い難いくらいぽんぽんと発想していた)時期。
憧れで買ったモレスキンのハードカバーのブラック。いちばん小さいやつ。それに同じように憧れで買ったラミーの万年筆を使って、とにかく言葉を書き殴った。
インクはブルーブラック。
短歌も含めて、定型詩・句は私にとって難しい。昔はあれこれ好き勝手して書いたが、それらはやはり単語同士を繋げただけというか、好きな要素をかき集めただけなので、深みがないと思う。ごまかしの擬音や、繋ぎだけの役割になる言葉(“そして”とか、頭数に加えやすくそれ単体でどこにも持っていける言葉)をリズム合わせで選んでしまう。
好きな歌人の作品は、三十一字、どこをとっても無駄がない。その境地に辿り着く感覚が今の私にはなくって、どこにあるかも分からない。短歌ってどう学ぶんだろう。
手元に本がない今でも、パッと思い出せるほど沁み込んだ歌がふたつある。
えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい
(笹井宏之『えーえんとくちから』より)
たやすみ、は自分のためのおやすみで「たやすく眠れますように」の意
(岡野大嗣『たやすみなさい』より)
好きな短歌は、こうして言葉同士が繋がれていて、意味通りに、唱えるように口の中ですぐ繰り返せる。
私は主に小説を書くけれど、私の中で根幹としてある作家は小説家じゃなくって、勿論好きな小説書きはいるが、やっぱり、中原中也がいちばんなんだよなあ。
型のある詩の中に、空間があり、色彩があり、読んでいて隅々まで世界が用意されていて、生きていると思う。彼の俳句も好きだ。型のあるものを歌う才能だと思っている。
(小説も私は好きだが、あまり評価されなかったのかな。)
懐かしい話だが、もっと若い頃は岩波の大岡昇平編の詩集と毎日一緒に眠っていた。(ほんとうに布団を共にしていた。)
より強いエピソードだと、文学館の小林秀雄に関する展示で見つけた、差出人が中原のはがき、撮影が禁止だったので頭の中で繰り返しながら彼の住所を覚えて帰ったことがある。
ただ、若い私は今より本を読まず、特に近代日本文学なんてさっぱりで、『細雪』が谷崎潤一郎著であることも、そも谷崎という作家の存在すら知らなくて、答えられなかった経験がある。
それが急に中原なんて不思議な話だとは自分でも思うのだけれども、純粋にその人の言葉に惹かれるってそういうことなのかな、と思った。恋っていつの時代もするものだね、とも。
という訳で、今日のタイトルは私がモレスキンのブラックを使っていた頃に作った、恋や愛の1首です。小説で扱いがちであるのと対照的に、恋や愛を詠んだものは少ないと記憶している。
絞り出して書こうとしたそれらでなくて、自然に出てきた心だ。案外、本質はこういうところに眠っているんじゃないか?
実はだいぶ前に書いた記事に、この短歌を少し登場させた。私が、私の作った短歌の中で、唯一口ずさめるので簡単に持って来やすい。だからいつまでもそばにあるし、そう、私はこういう短歌が詠みたい。