春の途端

とりとめもなし、思考や事象や日常について

一月十一日

何だか自分の言葉が軽い気がして、いつももどかしく、苛立たしい。こうして起こすうちはまだましで、喋るのはもっと自信がない。声に乗せる時に、私の言葉は、空気が抜けてすっからかんになっているのかもしれない。と思うけれど、一方で殆ど潔癖であるはず、というのが私の考えであったりする。詰めていってもこれといった根拠がないし、それに私は私を嫌いすぎる「きらい」があるから、単に気にしいが発動しているだけだ。きっと。

小説を書く時、いつも目に見えない何かが通り過ぎて、だから物足りない。私の小説に上手く厚みができないのはその、目に見えない何かを留めておけないからだと思っている。書いた文章を頭のうちで繰り返して、その風味の褪せた感じ、淡白でさらりと忘れてしまいそうなひどさに、どうしたものかと行き詰まるのが、私のはなし。だから一つひとつ、文章と文章の合間に、小さなリズムを挟んでみたり(そうすることで歯ごたえを生み出せないものか、という思案)人物の行動量に対し思考の描写の量を増やしてみたり。試行錯誤しながら、昔はこれほど悩まなかった! と羨む。私の文章はあっちこっちに散って、モチーフが安定しない。もう少し、いい文章が書けないものかな、頭の中のゴタゴタを一度に吐き出すようなものじゃなくて。

 

最近、私の感性と私とは、別のものな気がしている。華と器というか(これは、私の好きなゲームに出てくる表現をお借りした)。私の中身が考えることと、実際に動く私の外側と、それは当たり前のことであるかもしれないけれど、違う。からだには人間社会で生きていく以上どうしても理性がかかるからかもしれない。

享楽的に生きたい私の感性と、それでいて誰彼にいい顔してしまう私と、ふたつは違う存在で、私の感性は「私」以外に居場所がないから、しょうがなく身を預けている。——とすると、後は私の鍛錬なのだな。私の感性、休まず思う、忙しい、面倒くさい、新鮮な感性が好きだ。これが他にないことを知っている。今の私は、きっとこの感性の大きさ? 量? に見合わず、とても小さい。力量がないから、取りこぼしてしまう。

感覚と言葉を結びつけるのに、——小説という表現に——私は私の感性の手を取るどころか、リードできるだけの頼もしさが必要。器の大きいひとになることが、今年の目標かな。