春の途端

とりとめもなし、思考や事象や日常について

慰め

私は、私の持つ感性が好きで、しばしば存在意義としたり、縋ったりする。多分ずっと昔からそれを誇りにしていたと思うのだけれども、気がついたのはここ数年のこと。少し昔、ツイッターで読書アカウントをやっていた際に付き合いのあった人が「“感性が乏しい”って一番の悪口だと思う(意訳)」と話していて、とても共感したのがきっかけだった。それを言われたらと思うと腹の底が煮え繰り返る。つまりは、私にとって急所であるらしい。

感性を尊ぶ習慣(のようなもの)が身についたのは、偏に私がものを書いて育ってきたからだと思っている。小説でも何でも、書くという作業には随分なカロリーを費やすし、何より自分自身が蓄えた養分(これまでに見聞きした物語など)がなければ何も生み出せない。今までの私が育ててきた色々が創作には詰まるわけで、何かに興味を持つこと・そこからどう感じて、どう表すかを考えるのは、私そのものを成すと同義だと思う。私から引き剥がせないのだ、私の感性は。

 

この前ふと思い至った。私が死ぬとき、私の感性も共に死ぬ。決して置いていったりしない、私と一緒に、この感性も死ぬ。それに気づいたとき、愛おしくて、嬉しくなった。必ず手を引いて、道連れにしていける。私は、私の感性を(ある程度)独立したものと感じているのか、私の隣に立つ、私と同じようなかげぼうしの姿をぼんやりと思い浮かべた。頬ずりしたくなる。愛している、と自分の心を満たすためだけに吐いてみたくなる。私の感性は、エゴの下で健やかに育っているのだろうな。