春の途端

とりとめもなし、思考や事象や日常について

倚りかからず

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茨木のり子『倚りかからず』ちくま文庫

 

を、読んだ。

眠る前に二、三読んでいたのを、朝の電車の中ですべて読んだ。あっという間に言葉は追えて、けれどその沁み込みはじっくりだったように思う。何度も繰り返し同じ部分を味わうことが、いちばんに美味しい詩集だった。

読んですぐの感想として書いたものを引用すると、“等身大の言葉が特別で、きらめいた。”“素朴でありながら鋭いというか、真実を秘めているような調子がある。”としている。普段口にしている言葉であるはずなのに、その組み合わせが静かでしたたかな、料理店の味という感じがする。洗練された皿の白はきれいであろうし、その中心に据えられた料理の品々はからだにそっと行き渡るであろうし。遠い街の話が出たとき、一緒に異国の景色を思って、遥かを旅した心持ちを得た。

特に好きなのが、表題作の「倚りかからず」。挿絵が先に来たことで(椅子の絵)本のタイトルが決まったらしいのだけれど、私の中で一際ヒロインという感じのする詩であるから、偶然の抜擢であったことに驚いた。

 

倚りかかるとすれば

それは

椅子の背もたれだけ

(「倚りかからず」より)

 

冒頭からすべて好きであるが、最後の一連だけを。強く美しい人間の像を、この詩に感じることができる。とてもお守りのような詩だ。

 

私がこの本を知ったのは、バイト先にて。お客さんのご注文の品がこの『倚りかからず』で、まずは表紙の極まった美しさに惹かれたのだった。それからしばらく頭を離れず、お迎えをした。

茨木のり子の詩は、教科書で読んだくらいだけれど、そのたった教科書で読んだ(実際に授業内では扱われなかったので、ひとりで読んだ)詩を、私はずっと覚えている。少女時代の経験である戦争というものについて、詩は語っていた。言葉は実際にその景色を描いている訳ではないというのに、鮮明で、苦しくて、痛かった。その間接的な生々しさを忘れない。

少女時代に喪われたものを話していたっけか、と思い調べたら、「わたしが一番きれいだったとき」という詩であったことが分かった。

 

詩は恐らく、明確に読み終えるというときがない。言葉を拾って、得て、しばらく閉じて眠らせてから、またふと気になって、開く。あらゆる本には世界が広がっているけれど、詩はいちばん行くまでが早い旅行手段だと思う。ひとの想像性に、ある程度委ねられるからだろうか? 

私はまた近く、『倚りかからず』たちのもとに出かけていくはず。