春の途端

とりとめもなし、思考や事象や日常について

リヒター展の話

ゲルハルト・リヒター展へ行ってきた。東京国立近代美術館にて、来月2日までが会期とされている。リヒターのことは少し聞いたことがあったが、実際に作品と相対したのは初めてかもしれない。対象を“見る”という行為を度々、しかもさまざまな形で意識させられた。見ることにこれだけの種類があるとは、と思った。

例えば、ガラスに色を落とし込んだ作品。《鏡、血のような赤》や《黒、赤、金》などのそれらには、真正面に立つと自分自身が映り込む、素材ならではの特性がある。それも暗がりめいた色であるから、映る姿形はやや鮮明。静脈血のように染まった自分を、ドイツ国旗に沈んだ自分を、見つめている。《黒、赤、金》の方の解説に確か、どんな場所であれこの作品の前に立てば、その場は否が応でもドイツ国旗の中にあることとなる、といったような感じが書かれており(個人の解釈が入っているやも)、その過程——人がそれを見つめ、それの色に何もかもが染まるまで——自体に動きのある芸術を見る気がした。

 

また、この写真は作品である《鏡》を撮ったものである。

その向こうに映るのもまた《4900の色彩》と題された作品たち。同じ色でも、隣り合う色が違えば受け取る印象も異なってくるとして、すべてが違う色、4900色とされている。1つひとつのブロックが組み合わせられてできているのだけれど、この作品のポイントは展覧会ごとに組み立てを行うところ。幾度も展示されようと、1つとして同じ顔を持たない。いつまでも新しく、私たちの眼前に佇む。(この《鏡》から覗く鑑賞もいい!)

 

リヒターの表現といえば、アブストラクト・ペインティング(らしい) キャンパス上で絵の具を引きずるように延ばしたり、あるいは削り取ったりして制作する。これらの作品は見ていて、色の組み合わせに惹かれた。例えばここでは黄色と濃淡の水色が並ぶのが嬉しく、それからアクセントにバッ、と赤が私の目に映り込んだ。もしかすると、人によって目に入ってくる色の順が違うのかもしれない。そう考えたら尚のこと面白い、人毎に印象が変わるということだから。

こちらは比較して小さな作品だけれど、ずっと大きなアブストラクト・ペインティングも存在する。次の写真であるとか。

 

この関連性のない色の組み合わせ、白に赤にグレーにと平面で見つめることもあれば、ジッとしているうちに、何処かの風景を感じ始めて、そういった視界? 感じ方? の変化が非常に面白いと思った。

引き延ばされた赤が、濁った水面に反射する建物の色に見え、白もまた、何かが映り込むように見え、そうすれば後は、ここは何処であろう? と思う。急に立体的に見えてくるので、それはそれで面白い。

 

私が特に好きだ! と思ったのが、こちらの《トルソ》 薄い青(と視認できる)の感じが好みで、また全体のぼやけた風合いにとても心惹かれた。リヒター作品の中でもこれらぼやけを持つものが私は好きかな、今回買ってきたポストカード2枚どちらともそれであるし。リヒターは実際に撮った写真をもとに絵を描くフォト・ペインティングを行っており、この《トルソ》もそのうちの1つ。写真に見えるけれども実は絵であって、光の具合で刷毛目があるのが分かる。

解説曰く「カメラを介したイメージはすべて等価で、構図も構成も画家が判断しなくて済む、すなわち主体的な判断を回避しつつ、描くことが可能だったからです。」自由を求め西ドイツへ移ったリヒターが、自由そのもの、作家自身の主体的な意志・作為自体に疑念を抱いたことからフォト・ペインティングに至ったという。実際に生み出された作品以上に、そういった作家自身の考え、それに基づく動き、道のりに何よりの“芸術”を覚える。

 

(これは入り口の写真)

 

今回の展覧会、リヒター本人が会場のデザインから関わっているという点で、今に生きる現代作家だからこその味わいを感じられる面白い機会になっている。

また、リヒター展のチケットがあれば2階〜4階のコレクション展などなど観覧できるところも本当にいいので、是非に! 東近美の所蔵コレクション本当にいいから……! 萬鉄五郎の《裸体美人》が生で見れるから今! ぜひ!